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メッセージ
在宅療養支援診療所が制度化されて3年目にあります。まだその数は1万数千にすぎませんが、その役割を理解し、全国に在宅医療が拡充することを願っている医師は少なくありません。
また社会的には、病院や福祉施設の間にあって、まだ全国民の認知は十分とは言えません。
しかし誰しもが、家で療養し、家で最期を迎えたいことは、当り前で自然な人間の生き方と思います。それが自然でなくなっているとすれば社会的に大きな欠陥や歪みがあるはずです。
在宅医療は近い将来には、誰でもどこでも選択肢になり得るものにしなければならないと思います。
そのためには医師の責務だけでなく、国の役割が大きいはずです。
私たち在宅療養支援診療所は在宅医療拡充のために、その先陣を担う覚悟でがんばりたいと思います。連絡会の皆さんの活躍に期待してやみません。
その上で私の気楽な自己紹介をさせていただきます。
今立っているところに至るまでの航海図です。
昭和37年卒業して今の東大付属医科学研修所(当時は伝染病研究所)の外科に入局。研究といった高尚なものではなく、手が技を覚え頭は別(政治的なこと)のところに置きたい。その近道として、同級生の行かないところを選んで入局(他に1名いた)。当時はマーゲン6年とって教授に丁稚奉公をするとやっと胃を切らせてもらえるといったペースだった。変革を考えると6年などとんでもない、そんな時間はもったいないと思っていたがこのもくろみはすぐ崩壊し、ただ中途半端はへんな存在になっただけ。そこで運動に見切りをつけ、農村やへき地に行って、医師1人でもできることをやりたいと思い、部下の病院で2年間自主研修(内科)をして、現在地にやってきた。
町との1年契約が今や40年の“居すわりなんとか”みたいになっている。町の診療所6年、診療所を病院(国保町立ゆきぐに大和総合病院)と保健センター、特養(3つ併せて大和医療・福祉センター)に発展させて16年。もう医療でやりたいことは全てやったの気持で足を洗おうとしたがダメで、同町に開業したのが平成4年6月。
しかし以前から“赤ひげ”みたいに開業医をやってみたいと、思っていた節もあり、また父が58才で医者になり82才で死ぬまで山村で往診をしていた“原風景”と言いかえれば記憶とつながったのかもしれない。
開業して往診をやってみて、予想以上に面白いことがわかり、再び医療に立ち帰り、「在宅医療の子」として死ぬまでやろうということになった。
幸いにして今でも健康で、戦中子ども派として戦後日本を生きてきて、もうひとつ仕事ができればと願っている。
日本という国のどこに住んでいても、安心して、子を産み育て、安心して自分らしく死ねるように。在宅医療がいつでもどこでも全国民の「選択肢」になれるようにしたいと思っている。
若い皆さん、宜しくお願いします。がんばってください。