在宅医療の利用ガイド
わが家の在宅医療
あなたの家にかえろう 〜家での看取りが教えてくれたもの〜
吉田 利康
現役看護師が病院を見切り
妻は現役の看護師、目指すはホスピスの看護師になることだった。そんな彼女が急性骨髄性白血病で倒れてしまう。いったんは小康を得るが再発、そして、余命告知を受けた。一年半の入院生活を送り、妻が口にしたのは「家にかえってもいいやろか? 自分の身体を他人に触りまくられるのは、もうこりごりや」
看護師が病院を見切り、目標として励んだ施設ホスピスも選ばす、「家に」と言った。その一声で在宅ケアを即決するが、それまで家という選択肢は視野になかったのである。
ところが、退院を願い出た僕に病院が伝えたのは「死亡確認をしてくれる医師を見つけておきなさい」だったのである。気持ちを新たに頑張ろうとしていた矢先に。(脚注)
医者に往診を断られ
家にかえった。見慣れた部屋の使い慣れたソファーに腰を下ろし「あぁ、家はいい。なんて気持ちいいのだろう。少し眠るからこのままにしておいてね」と寝てしまう。痛みのため、病院ではろくに眠れなかったのに、不思議だ。
病院の紹介状を持って、開業医さんに往診を依頼した。すると彼は、うちでは緩和ケアはできない、とあっさり断る。他の選択肢の紹介もなく、出来ない説明ばかりする。家庭医として、腹痛から風邪から水虫にいたるまで、長年世話になってきた医者なのに、そりゃないだろう。緩和は病院と相談するから、もしもの時、死亡確認はしてくれるよう頼んで、承諾を得た。
おのずと出てくる家族の役割
こうなると、医療のバックアップは僅かしか望めない。「在宅ホスピスケア医」なんて言葉も知らず、大学病院の主治医だけを頼りに、医療ど素人の家族が患者を守る。不安と混迷のドタバタ看病の始まりだ。逆に言えば、断られたお陰で白衣を着た専門家たちが、中心の座を占めない在宅ケアがスタートしたのだが・・・ それは、どこか祖母が他界した頃の、古い時代の看取り方に似ていた。
するとどうだろう、「病院は母さんをとっていった。病院なんて大嫌いや!」と言っていた子供たちが、長男は自ら車のハンドルを握り、当時高校生だった次男は車椅子を押し、母親の通院を介助する。主治医との連絡役は長男、次男は母親の話し相手。僕は、みんなの食事係にまわる。それぞれが、自然に役割を得ていったのである。
日常の復権
病院と違って、家ではカーテンで患者と家族が仕切られることがない。面会時間に制限があるわけでもない。一部始終あるがまま伝わる。衰弱と痛みで苦しむ姿を前にする僕は「もう逝かせてやりたい、これ以上頑張れというのはオレのわがままではないか」こんな想いにすらなる。こうして、我が家の全員が、亡くなる過程の一部始終と係わったのだ。この経験はつらかった。二度と味わいたくはない。しかし、それが、人について、いのちについて、愛について、さまざまなことを教えたのだ。今では、それが最高の遺産、誇りすら感じる。強がりかもしれないが・・・
八割以上の人が病院で最期を迎える日本。その中で僕らのような体験をする人は極めて少ない。誰もに同じ経験を望むのではないが、死は医療に取り込まれ、日常からあまりにも遠い存在になってしまったと思えてならない。
「死」は死んでいくものからしか学べない。生も「死」が教えてくれる。人と人、人と自然や動物との関係性もそこで構築される。僕の死生観は一気にかわった。それほど力あるもの、それが「日常に位置づけられた死」なのである。
地域によって進み具合は違うが、この頃は病院とかわらない看取りが家でも出来るようになってきている。それは大事な要素だが、だから「家」なのではない。旅が終われば家にかえる。当たり前の事である。同じように、人生という旅が終わる時は家にかえる。だから「家」なのである。換言すれば、死は日常に位置するものだ。かえれない事情は別として。
ターミナルにも幸あり
別れの二日前だった。体力は限界に近づいていただろう。モルヒネを拒否し続けていた妻は、痛みで身体を横たえることもできず、壁にもたれかかっている状態。その彼女が僕の顔を覗き込んでこう言う。
「お父さん、疲れているみたいよ。まぶたが腫れてる。私のことはいいからちょっと横になりぃ・・・」
死が扉の前まで来ているというのに、なぜそんなにやさしいのか。返答にこまった僕は、
「お前のしんどそうな顔を見ていたら、つろうて一人で泣いていたんじゃ。まぶたぐらい腫れるわい」
と、ユーモアのつもりで強がってみせた。するとどうだろう、妻は顔をぐちゃぐちゃにして泣き、手を握ってきた。僕も握り返して泣いた。
注:医師による死亡確認がないと、警察による検屍が行われる。
冊子「あなたの家にかえろう」の完成によせて。 吉田 利康(おかえりなさいプロジェクト一員)